【巨匠が語る巨匠】『清張さんと司馬さん』
こんにちは。readingsalonのブログ、共同執筆者の北澤です。毎月第一土曜日に、その月に読んだものの中から印象に残った本を紹介しています。今回もまたまた遅れての投稿になりました。第一日曜日に変更したほうが良いかもしれませんね...
前回の読書会(第44回朝活読書サロンCollective Intelligence)の様子は、われらが前田チーママが紹介してくれています。久し振りの参加になったので、前回この場で紹介した『光源氏の一生』と本日お目に掛ける一冊を紹介させていただきました。
半藤一利著『清張さんと司馬さん』
『光源氏の一生』は、生まれてから半世紀が経過する「古典が語る古典」と呼ぶべきものでした。こちらの『清張さんと司馬さん』は、松本清張と司馬遼太郎とに編集者として接していた半藤一利が語る「巨匠が語る巨匠」と呼びたい一冊です。
私は松本清張も司馬遼太郎も読み込んでいるほうではありません。松本清張にいたっては『点と線』をはるか昔に読んだことがあるくらい。恥ずかしながら、松本清張が昭和史を語る巨匠とは知りませんでした。これはタイトル買いしましたね。
半藤一利が分析してみせる松本清張と司馬遼太郎との比較は、巨匠たちの著作を読み込んでいる読書人には頷けるものがあるでしょうか?
松本清張は、地べたを這い、草の根をわけ、刻々の変化を見る。大掴みではなく微細にわけ入る。一方、司馬遼太郎は、歴史を鳥瞰するように捉えて、大掴みで読者に示しながら、登場人物の活躍を描き、歴史のうねりを手に取るようにわからせる。
両巨匠の比較で印象的だった記述があります。それは上述した歴史の捉え方や著作への落とし込み方ではなく、何を描いたかということです。
司馬遼太郎の小説は、常に主人公の最良のところを示してそれを蘇らせる手法です。だからいつも明るい。しかし、司馬遼太郎は青史に恥ずべき反吐が出るような昭和の人物群像は、ついに書けなかった(書かなかった?)としています。
一方、松本清張は違いました。親近感を感じない人物群像と何年も付き合う阿呆らしさと疲労感とで死ぬ思いをしたに違いないとしています。そのようにして生み出された作品の登場人物には、これっぽっちの愛情も抱いていないのだと。
これらは編集者として付き合っていたからこそ語れることなのでしょう。本書を読んでいると、半藤一利は司馬遼太郎よりも松本清張に、より親近感を抱いていたのだろうなと感じます。松本清張を語る際の表現の端々にそれを感じます。
巨匠が語る巨匠。素晴らしい一冊でした。おすすめです。